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シヲヘイサセヨ~ペストと隔絶地遺言
「ペストチクタルコトヲセンゲンシ シヲヘイサセヨ」
大量のネズミの不可解な死と、それに引き続くリンパ腺腫を抱えた熱病患者の急増を経て、ベルナール・リウーほか多くの市民が生活するオランの町は、この公電により封鎖されます。ノーベル賞作家アルベール・カミュの名作『ペスト』の有名なシーンです。
ペストは、その強い感染力と致死率によって、長く人類を苦しめてきました。確認できる最初の世界的パンデミックは、6世紀に東ローマ帝国から発したものと言われており、『ペスト』のなかでリウーも言及しています。2回目のパンデミックの激震地は14世紀のヨーロッパ。ペストは、19世紀末のアジアで3回目の世界的流行を引きおこした後、今でもいくつかの地域で人命を奪い続けているのです。
実はこのペストの痕跡は、日本の民法のなかにも見つけることができます。
「伝染病のため行政処分によって交通を断たれた場所に在る者は、警察官1人及び証人1人以上の立会いをもって遺言書を作ることができる。」(民法977条)
ローマ法の「ペスト時に作成された遺言」の系統に属するものとされ、ドイツやフランスなど多くのヨーロッパ諸国には、同じような隔絶地遺言(かくぜつちいごん)の定めがあるとされています。そもそも遺言は人生最後の意思表示である一方、亡くなった後に遺言者の意思を確認することができませんので、厳格な方式によって正確性を担保されています。しかし、ペストで隔離された町では、必ずしもそのような厳格な方式をとることが容易ではありませんでした。従って、このようにやや緩めの方式が採用されているのです。
「『緩め』っていうけど、何が緩いの?」 いいご質問ですね。実はよくわかりません・・・。というのは、まず隔離された町であっても、遺言書を全部自分で書く自筆証書遺言は、もちろん有効です。ですから、封鎖された町でも自分で字が書ける人は、わざわざ警察官や証人を連れてこなくても有効な遺言を書くことができます。
これに対し、公正証書遺言は難しいかもしれません。小さな町が封鎖された場合、公証人がいないかもしれませんから。とすると、隔絶地遺言は公正証書遺言の代わりにはなりそうですが、実は隔絶地遺言には、公正証書遺言と同じだけのメリットがあるわけではありません。一例をあげれば、公正証書遺言なら法律に詳しい公証人の支援が得られますが、(申し訳ないけれど)警察官に遺言の知識があるとは思えませんね。また、隔絶地遺言は、都市封鎖が解除されて6か月後にも生存していると、自動的に無効になってしまいます。
今のところ、国によれば、新型コロナウイルス感染症に関して「都市封鎖はしない」とのことですので、幸いにも隔絶地遺言が活躍する場面はなさそうですが、民法977条の規定は、はるか中世ヨーロッパで発生した感染症による災禍の一面を、現代を生きる私たちに伝えてくれているといえるでしょう。
【参考】
・『医療の挑戦者たち32~ペスト菌の発見①』(テルモ株式会社)
https://www.terumo.co.jp/challengers/challengers/32.html
・『新版注釈民法(28)』(有斐閣)
掲載日 2020.4.26