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感染症と旅行会社の説明義務

深く裂けた大地に、とめどなく流れ落ちる瀑布。あたりには全身を揺さぶるような轟音(ごうおん)が響き渡ります。南部アフリカ最大の名所、ビクトリア・フォールズです。南部アフリカは日本にない魅力があふれています。アフリカの大地に沈む夕日を眺めることのできるザンベジ川サンセットクルーズ、そしてゾウを始め野生動物たちの楽園といわれるチョベ国立公園などなど。

会社を定年退職したAさんが奥様とともに、ある旅行会社の主催するアフリカツアーに参加したのは、2003年の冬でした。南アフリカ、ジンバブエ、ボツワナの三国を周遊し、まさに心が洗われるような雄大な景色の連続でした。ジンバブエ滞在中の夜、ホテル内で蚊に刺されたことなど、そのときは全く気になりませんでした。
ところが、帰国後8日目の夜、事態は暗転します。Aさんは激しい悪寒に襲われ、熱を測ると39度を超える高熱でした。翌朝、近所の内科医を受診すると、B医師はインフルエンザではないかと疑いました。検査結果は陰性でしたし、Aさんはアフリカ旅行の話や下痢もあるという話もしたのですが、B医師は抗インフルエンザ薬を処方しました。
実は、Aさんは翌日、日帰りで上京し友人と会う約束になっていました。Aさんは迷いましたが、解熱剤を服用したところ熱が下がったため、東京行を強行しました。深夜に帰宅すると腰の痛みとともに再び高熱となり、AさんはC病院に救急搬送されました。ここでも当初はインフルエンザ脳症が疑われたのですが、血液検査の結果、ついに原因が判明しました。熱帯熱マラリア。しかし、時すでに遅し。Aさんはもはや手の施しようがなく、その日のうちに息を引き取りました。
熱帯熱マラリアは、ハマダラカが媒介するマラリア原虫によって引き起こされるマラリアの一種ですが、短時間に激烈な経過をたどり死亡のリスクもある、最も危険なタイプです。一方、早期に診断し適切な治療を開始すれば、重症化を防ぐことができるとされています。Aさんについても、早期に熱帯熱マラリアであることがわかれば、十分治療できたと思われるのですが、気づくのが遅れたことが致命的でした。

Aさんの遺族は旅行会社に損害賠償を求めて裁判を起こしました。大きな争点は、今回の旅行におけるマラリア感染リスクをどう見るか、そして、旅行会社は帰国後の健康上の留意点について、もっと情報提供をすべきだったか、という点でした。
遺族の代理人は、旅行会社がAさんに交付したガイドブックに、「今回のツアーで訪れる地域では、マラリアの心配はありません」と書かれていたことなどを追及し、旅行会社がきちんとマラリアのリスクを指摘していれば、Aさんも医師にマラリアの可能性を指摘するなど対応ができたはずで、そうしていれば死を免れたはずだと主張しました。これに対し、旅行会社は、「旅行会社の義務は、移動手段と宿泊先の手配だけで、予防医学の手配は含まれない」などと主張して争いました。

裁判所は、旅行会社は、旅行一般に伴うリスクと異なる高度のリスクがあるときは、旅行者に告知しなければならないとして、旅行会社の主張を退ける一方、本件ツアーにおけるマラリアのリスクは、ゼロではなかったが低かったと認定し、特にマラリアのリスクを告知しなくても違法ではないと判示しました。
また、裁判所は、「自らの健康を管理するのは本来的には旅行者自身」と指摘すると同時に、本件では、B医師はAさんからアフリカ旅行の話を聞いていたのであるから、マラリア感染を疑うべきであって、旅行会社がマラリアのリスクを告知しなかったからAさんが亡くなったとはいえない、つまり旅行会社の不告知とAさんの死との間に相当因果関係がないとも判示しました。
裁判所の判断は高裁、最高裁でも維持されたようで、結論としてはやむを得なかったように思われますが、あえてAさんに「マラリアの心配はありません」と伝えていた旅行会社に何の責任もないという点には、少々疑問も感じます。ただ、「自分の健康を管理するのは自分自身」という指摘は、厳しいながらも、胸に刻んでおく必要がありそうです(東京地方裁判所平成18年11月29日判決。若干脚色してあります)。